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「ジェネ的No.1イクメン人物伝」 山崎大地さん最終回

No5.宇宙飛行士を目指す子ども達に伝えたいこと

 

大地さんは、2000年に憧れだったNASAジョンソン宇宙センターで国際宇宙ステーション

の管制官になるための訓練を受けているときに、当時宇宙飛行士候補者だった直子さんと

知り合い結婚。

その後、娘の育児・両親の介護・そして宇宙飛行士の夫として、自分の仕事との両立を

がんばってきた。

そして結婚から4年後、NASAでスペースシャトルの訓練を行うことになった妻のために娘

を連れて渡米することを決意する、しかし、日本の宇宙開発を取りまとめているJAXAから

仕事も就労許可も貰えず、やむなく会社を退職し専業主夫となる。

「政府外交官の配偶者という立場だったことから、便宜供与とメディアからたたかれるとか、

前例がないなどと言われ、結局米国での仕事や就労許可が得られなかったんです。

かといって、宇宙開発という特殊な職種は国をまたいでしまうと

個人ではどうにもならないんです。国際宇宙ステーションのフライトコントローラーになって

「きぼう」を組み立てたいたいという私の夢は、そこでほぼ絶望的となってしまいました。」

このとき米国での宇宙の仕事や就労許可が貰えなかったことについては、

もう少しJAXAががんばってくれたら、という想いは大地さん自身、今でもぬぐえない感情。

それさえクリアしていれば、家族でもっと協力して、お互いの夢を果たせたかもしれない。

しかしそれは今となっては後の祭りだ。

「これから「宇宙開発に携わりたい」、「宇宙飛行士になりたい」という夢を持つ子供がいたら、

僕は言いたいですね。「最初からアメリカへ行ったほうがいいよ」と。やはり、日本はまだ立ち

遅れているのが現状。アメリカやロシアとは経験や勢いがまったく違う事を痛感します。

例えば宇宙飛行士なら、現在でもアメリカでは大体2〜3年に1回、20人程の宇宙飛行士採

用があります。そして常時100人くらいの宇宙飛行士がいるんです。

スペースシャトルには7名が乗り、年間だいたい3〜4回は飛んでいます。

大まかに計算しても、1年に20〜30人くらいの飛行士が飛ぶ事ができるんです。

シャトルの7名の乗組員のうち3人が新人だとすると、2〜3年の間には必ず宇宙へ行ける順番

が回ってくるということです。

数年に1回1人だけが飛べる日本とは全然チャンスの大きさが違います。」

また、アメリカでは普通の公務員の募集欄の中に「宇宙飛行士」という項目があるのだと言う。

さらにびっくりしたのが、宇宙飛行士の採用には筆記試験などがなく、書類選考と医学検査と

面接しかないというのだ。スペースシャトルのフライトは、毎回ミッションの目的が違う。

例えばあるときは国際宇宙ステーションの組み立てミッション、

またあるときはハッブル宇宙望遠鏡の修理ミッション、

またあときは科学実験ミッションだったり、軍事衛星の放出ミッションなど、様々な目的の中で、

今回は車の修理工のエキスパートが選ばれるかもしれないし、次回は病院のお医者さんや

学校の先生が宇宙飛行士になるかもしれない、というのだ。

つまり、学歴や学力ではなく、その道のエキスパートのなら誰にでも宇宙に行けるチャンスがあ

り、宇宙への夢が実現する可能性が日本よりもはるかに高いのである。

「宇宙飛行士や宇宙開発に携わるのは、

もの凄く特別な人だと思っている常識を一度考え直してほしいです」

大地さんは続けて言う

「子供が宇宙飛行士になりたい。というと、日本の親はまず「いっぱい勉強しないとなれないよ」

といいます。するとそれを聞いた子どもたちは「勉強ばかりしなくちゃいけないなら、宇宙飛行士に

はなりたくない」と最初から夢をあきらめてしまう。日本では、まずは学歴から、というイメージが作

られているんです。私はそれは間違っていると思うんです。実際に宇宙飛行士に選ばれた人はみ

な、小さい頃、親から「勉強しなさい」と強制されたことはないと言います。

人生には勉強だけじゃない大切なことも沢山あります。

子供のころにしかできない経験だって沢山あります。

大人が子供の素朴な夢をつぶさないで欲しいんです。」

宇宙が好きで、将来宇宙開発に携わる仕事をしたいなら、宇宙飛行士だけでなく、宇宙ステーション

や補給船を開発する人、運用管制センターで指揮をする人、補給船を動かす人、宇宙飛行士達を教

える教官や宇宙飛行士の健康管理をするお医者さんだっている。

宇宙飛行士と共にチームで協力して一つのミッションを成し遂げるのだから、いろいろな選択肢がある。

自分の興味や得意分野を生かせる可能性が非常に沢山あるのだ。

これからは、さらに宇宙開発が進み、もっと多くの人々が宇宙に行ける時代がやってくる。

宇宙旅行が当たり前な時代がいづれくるかもしれない。だからこそ、子どもにも大人にも、もっと宇宙に

興味をもってもらい、広い視野でモノを考えられるようになってほしいと願う。

大地さんの夢は、まだ終わっていない。

宇宙ステーションの管制官じゃなくても自分を生かせる仕事は沢山あるはず。

今はそれをゆっくり模索中だという。

大地さんこそ、使命をうけてこの世に産まれた一人かもしれない。

「日本初のママさん宇宙飛行士」を支えた男は、次は自分のミッションを成し遂げ、社会に貢献するとい

う野望を忘れていない。

取材/文 松前博恵

「ジェネ的No.1イクメン人物伝」 山崎大地さんVOL.4

No4.宇宙船の管制官の夢

 

大地さんは、1997年 東海大学工学部航空宇宙学科卒後に、三菱スペース・ソフトウエア(株)に入社。

1998年より国際宇宙ステーションの運用管制官として「きぼう」の運用準備に従事され、

その後も順調に自分の夢に近づいていった。

しかし、そのための最初の第1歩となる大学進学では、2浪した末の合格であった。

高校3年生になり、進路面談の際、事前のアンケートで希望の進路を書かされた。

悩んだ末、自分は宇宙が好きだったことを想い出し

「NASAで働きたい(掃除のおじさんでも可)」と書いたそうだ。

その後、面談でそのアンケートを見た進路指導の先生に言われたのは

「馬鹿なこと言ってないで真面目に考えろ!」という半ばあきれたような一言。

それもそのはず、大地さんの通っていた高校は進学校ではなく、

卒業生の大部分が就職するという状況だったのだ。

大地さんはそのとき「では、電機メーカーで家電のデザインをしたい」と応えたというが、

その時の出来事が大地さんの心に火をつけることになる。「いつか絶対NASAに行ってやる」と。

確かに、高校生活は遊び中心だったため、受験勉強など一切していなかった。

一つ得意なことがあるとしたら、母親が英語の先生だったこともあり、英語は自然に話せていたこと。

ただ、耳で覚えた英語であり、受験英語ではない。

そこから猛烈に勉強をした。

少しでも宇宙に近づくため、そしていつかNASAで働くために大学の学科は航空宇宙学科を選び、

苦労の末、見事合格した。50倍近い難関だった。

航空宇宙学科を卒業すれば、きっと宇宙飛行士になれる。

その当時は単純にそう思っていた。だがしかし、その頃日本人で宇宙に行った人はほんの数人。

そして宇宙飛行士は必要な時以外は募集がない。

そう。日本で宇宙飛行士になれる確率は、ほぼ0に近いのだ。

「大学3年生の頃、「アポロ13」という映画が公開されたんです。

あの映画を見ると、宇宙飛行士は宇宙船に乗る現場作業員。

その全てを指揮するのが、フライトコントローラーやフライトディレクターという仕事。

言うなれば宇宙船の管制指揮官といったところ。

NASAのミッションコントロールセンターで働く管制官達が非常にカッコよくて、

何度も何度もその映画を観ました。そして僕の目指すものはこれだ!そう考えました。」

管制官にはどうしたらなれるのか?日本で近い仕事が出来るのか?常に頭の中で、そん

なことばかり考えていたという。

その直後、筑波宇宙センターの宇宙シンポジウムに参加した際に見学でセンター内を回ったとき、

ある建設中のビルの前に「宇宙ステーション運用棟」という看板を見つける。

そこは、後に国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」のシステムを監視し運用することになる

ミッションコントロールセンターのビルであった「国際宇宙ステーション(ISS)」とは、

地上約400キロメートル上空の地球周回軌道に建設が進められている巨大な有人宇宙施設で、

「きぼう」はISSの一部である日本の実験棟の名前。

ISS計画は、1984年に始まった、米国・ロシア・欧州・カナダなど世界15ヶ国が参加する

国際協力プロジェクトであり、日本実験棟「きぼう」は日本で開発され、組立・試験が行われた後に、

NASAに輸送されてスペースシャトルで打ち上げられることになっていた。

そして、その運用はその筑波宇宙センターの宇宙ステーション運用棟で行われるのだ。

大地さんは、「これこそ、自分がずっと求めていたカッコいい宇宙の仕事。

いつか必ずここで働きたい」そう考え就職活動を行った。

そして見事に「きぼう」の運用チームの一部を担当する

三菱スペース・ソフトウエア(株)という会社に就職が決まり、

希望通り「きぼう」運用の仕事に従事することになったのだった。

取材/文 松前博恵

「ジェネ的No.1イクメン人物伝」 山崎大地さんVOL.3

遊びをめいっぱい!そして大らかに見守ってくれたご両親

「実は小中学生時代とは違い、高校生になったら宇宙のことはすっかり頭から消えていました。

それよりも、もっと興味のあることに出会ってしまって。

例えば、コンピューターで音楽を作るデジタルミュージックにはまったり、

友達とバンドを組んだり、単車(バイク)を乗り回していました。」

その頃、TMネットワークやYMOなどを良く聞いていたという大地さん。

自宅にあったコンピューターで、音を作り、歌を歌い、バイクにまたがり、

友達と一緒に自由にめいっぱい遊んだという。

 

(取材場所:鎌倉 tsuu)

ご両親はさぞご心配されたのではないか?という質問に対しては、

親からうるさく言われたことはなく、とても寛大なご両親だったそう。

「僕の両親は、子供にはいつも自由にやりたいことをやらせたい、という親でした。

といっても、そういうことを言われていたわけではない気がします。

むしろ、両親の背中で教えてもらったという感じですね。

父も母もいつも趣味がいっぱいあって、

いつも楽しそうに自分たちがやりたいことをやっていましたから。

今、自分が父親になって思えるのは、例えばバイク好きならバイクに乗ればいいし、

レーサーという職業に就く可能性だってある。

アニメが好きなら映像の業界に進むかもしれない。

もちろん職業につかなくても、全ては良い経験になっていくはず。

自分で考え、自分で経験し、痛い目にあって学んだり、子供は子供の人生があり、

親は親の人生で、子供に対して背中を見せていけばいいんじゃないかって思うんです。

今の親は、子供を管理し、過保護にする傾向が強いような気がします」

大地さんが育ったご家庭は、大手電機メーカーのエンジニアのお父様、

英語や書道の教師だったお母様、そして9歳離れたお姉様という4人家族。

小さい頃は近所の国立大学の附属小学校に通っていて、とても自由な校風。

現在は、ご自身の娘さんも同じ小学校に通っており、同じ学校に4代目として通っているとのこと。

「僕が一番遊んだと思えるのは、高校時代ですね。

本当に夢中になって、いろいろなことに興味を持ち、めいっぱい楽しんでいました。

そのかわり勉強は全然しなかったんです。

だから、大学受験は浪人しました。でも、自分の高校時代を後悔はしていません。

可能な限り沢山の経験をして、その選択肢の中から、本当に自分がやりたいことは何だろうと

しっかり考え、最終的に大学の進路を選ぶとき、小さなときから一番心に残っていた

航空宇宙工学の道にしぼることができました。

全ては自分でやりたいと思って決めてきたことですから。」

大地さんは、その後ご両親の介護を懸命に頑張ることとなる。

でも、それは自分を自由に育ててくれた親への恩返し。

大好きなお父様は今はもう天国に召されたけれど、介護は本当に大変だったけど、

後悔はないくらい、最後まで一緒にいることが出来た。

お母様も今は自宅近くの介護施設に入り、頻繁にお見舞いに行かれているようだ。

親が大きな愛をもって子供を見守っていれば、しっかりと恩返しができる。

子どもは親のエゴの産物ではないし、親がレールを敷くことは、良い結果を産まないことも多い。

多少ずぼらでもいい。かえってずぼらな親の方が子供はしっかり育つ。

親が親の人生を楽しく過ごし、背中を見せることが大事だと、大地さんに教えて頂いた。

取材/文 松前博恵

「ジェネ的No.1イクメン人物伝」 山崎大地さんVOL.2

No2.ガンダムや宇宙が好きだった少年時代

「子供のころは、近所の友達と基地を作ったりしてよく遊んでいました。

両親も僕をプラネタリウムによく連れて行ってくれたので、

望遠鏡で星を見るのも好きでした。

小学生のときに友達と天体クラブを立ち上げ、ワープロで観測記録シート

や会員証、天体望遠鏡まで自分達で作ったりして楽しんでました。

あとは、宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダムが大好きでした。」

 

宇宙に興味を持ったきっかけを伺うと、大地さんは即座にそう答えた。

しかし、宇宙を意識したのは、さらに大きな出来事があったと言う。

「アニメの世界も影響を受けましたけど、スペースシャトルのプラモデル

を作った時にさらにリアルに宇宙船に興味を持ちました。

スペースシャトルは実在の宇宙船ですからね。

その後、中学生の時に入団していたボーイスカウトの企画で

アメリカにキャンプに行ったことがあるんです。

その時に、初めての飛行機を経験。

そして1週間のキャンプ後の観光でワシントンのスミソニアン博物館に

行ったのですが、そこで展示されていた本物のアポロの宇宙船や

巨大なIMAXシアターに映し出されたスペースシャトルや

宇宙飛行士達の活動を見て本当に感動してしまったんです。」

そして日本に帰国してすぐ、歴史的にも残る痛ましい事件が起きた。

日本航空123便の御巣鷹山墜落事故だ。

自分が生まれて初めて乗ったばかりだった「飛行機」という乗り物が

落ちたという衝撃。

大地さんはショックを受けたのと同時に、

いったい飛行機が飛や搭載されている機器はどういう仕組みに

なっているのだろう?と本気で知りたいと思ったそうだ。

「あの事故も、本当に衝撃的な出来事でしたが、

その半年後に今度はスペースシャトル・

チャレンジャーの爆発事故があったんです。

射ち上げから73秒後に爆発し、7名の乗組員が犠牲になってしまった。

テレビで見ていて再び衝撃を受けました。

そして、宇宙開発が夢というよりは、現実のものとして、

より興味を持つようになったんです。

いつか自分がもっと安全で快適な飛行機や宇宙船を作ろうと。」

小さな頃から天体博士のように星が大好きだった。

宇宙関係の仕事をしているご家族や親族がいる。

科学博物館やプラネタリウムが側にあり、いつも科学や宇宙に接していた。

など、生活環境が必然的に宇宙開発へ導いていく方もいらっしゃるかもしれない。

しかし、大地さんの場合はまるで運命が流れているかのような印象を持つ。

そのころは、まさか、自分が宇宙飛行士の夫になるとは、

夢にも思わなかったであろう。

取材/文 松前博恵

「ジェネ的No.1イクメン人物伝」 山崎大地さん

自分の子どもだけでなく、社会的に幅広く子育てに関わる素敵なパパたち。

それがジェネリーノの考える、「イクメン」です。

 NO.1 宇宙家族 ヤマザキ

 2010年4月5日。日本時間午後7時21分。宇宙飛行士山崎直子さんを乗せた

スペースシャトル・ディスカバリー号が、フロリダのケネディ宇宙センターから打ち

あがった。

その時、夫の大地さんと娘さんは、ケネディ宇宙センターの観覧席からこの瞬間

を見つめていた。

「日本初のママ宇宙飛行士、宇宙へ」

山崎直子さんの宇宙空間での映像が流れ、不況の真っただ中、

日本の明るいニュースとして多くの方々の心に、希望と光を与えてくれたのは言う

までもない。

しかし、その陰には家族の苦労があったことを、大地さんは著書で書かれている。

自分の苦労を単に伝えたかった訳ではない、著書には、もっと本質の訴えが描か

れている。

科学や技術が進歩するミッションを成し遂げるために、宇宙開発チームがあり、

そのチームの一員として宇宙飛行士が存在する。

その中でも、日本は特に宇宙飛行士をヒーローとして、オリンピックに出場する

トップアスリートたちと同じような扱いで、国の英雄になる。

英雄にも家族がいる。子育てや介護などの現実もある。

仕事のために、家族はバラバラ、配偶者も夢をあきらめざる負えない、そんな

現実は、普通の家庭にも起こりうることだが、

宇宙飛行士の家族に充分な配慮とケアを行っている国もある。

つきつめていくと、日本の社会。

会社や国の介護や育児制度が整っていない現実を見せつけられる。

山崎さん一家は、大地さんご自身も国際宇宙ステーションの

運用管制官として「きぼう」の運用準備に従事されていた。

現在8歳の娘さんは、日本とアメリカ、そしてロシアを行き来した経験や

NASAでの体験など、宇宙と近い環境で育っている。

まさに「宇宙家族」。

直子さんが宇宙飛行士としてロシアやアメリカに単身赴任する中、

大地さんも介護や育児を抱えながらも、日本実験棟「きぼう」のフライトコントロ

ラーとして、宇宙ステーションの組み立てに夢と信念を持っていた。

しかし現実的には、かなり厳しいものだった。

忙しい仕事と育児と介護に追われ、

ついには自分の夢を捨てざる負えなかった。

その怒涛の日々が、妻、直子さんの乗る、スペースシャトル打ち上げと同時に

想い出され、涙があふれ出たという。

建前ばかりの世の中に、まっすぐに自分の考えや気持ちを伝える大地さんに

好感を持った方は少なくない。

そして次は自分が、やりがいのあるミッションを成し遂げたいという情熱もある。

今回のイクメン人物伝は、そんな大地さんがママや子ども達に伝えたい

「宇宙へ近づく夢のプロセス」をお伝えしたい。

 

山崎大地

1972年 神奈川県鎌倉市生まれ。

1997年 東海大学工学部航空宇宙学科卒後、三菱スペース・ソフトウエア㈱

      に入社。

1998年 国際宇宙ステーションの運用管制官として「きぼう」の運用準備に

      従事。

1999年 NASAでの国際宇宙ステーション実運用訓練生に選ばれ、

      翌年にジョンソン宇宙センターで管制官としての訓練を受ける。

2000年 宇宙飛行士候補者の角野(現:山崎)直子と結婚。長女誕生後、

      夫婦で育児休暇を取得しつつ、一時は父子家庭にもなりながら

      仕事と育児・介護・家庭との両立に奔走。

2004年~ NASAでスペースシャトルのMS訓練を行うこととなった妻のために、

      娘を連れて渡米。しかし政府外交官の配偶者ということから、

      仕事や就労許可が得られず、会社を退職し専業主夫となる。

2005年 有限会社国際宇宙サービスを設立。

2006年 NPO法人有人ロケット研究会、

      および株式会社アストラックスミッションサービスを設立し、

      日本における新たな宇宙産業の創出を目指す。

2008年 米国永住権取得。

2009年~2010年 

      妻のスペースシャトル・ディスカバリー号での宇宙飛行を

      家族として支える。

著書に「宇宙主夫日記」(小学館)

    「宇宙家族ヤマザキ」(祥伝社)

取材/文 松前博恵